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聖フーゴ司教証聖者     St.Hugo E.             記念日 4月 1日




 聖人達の伝記を調べて見ると、敬虔な父母の子と生まれた人が非常に多い、例外もあるが大方は「善き木は善き実を結ぶ」という聖福音の聖言葉通りである。即ち善き親は大抵善き子を恵まれるのである。

 聖フーゴの両親もやはり信心深い人々であった。父は勇ましい軍人ながら、又熱心なキリスト信者で、82歳の老齢に達してから聖ブルノの修道会に入り、厳しい戒律を守って善終の準備をした。母も敬神の念に富み、フーゴを生む前天主から不思議な御示現を受けた。というのは聖ペトロが可愛い彼女の子を抱いて他の緒聖人を引き連れて天に昇り、天主の玉座にそれを献げる所をありありと見たのである。これは彼等夫婦に我が子を立派に教育せねばならぬとの訓戒にもなった。何となればその御示現によって、我が子を聖なる召しだしを受ける事は疑う余地がなかったからである。また同じ理由から彼等は我が子が司祭になるよう及ぶ限りの便宜を計ってやった。

 そのころのフランスの教会では風紀が乱れていた。フーゴは一般信徒でありながらヴァレンスの司教座聖堂の参事会員に任命されてから、教会内の秩序を正しい方向に導き始めた。やがて司祭になるとフーゴは、長上の司教から多大の信頼を得て重要な仕事を任される身となった。彼の目立って人に優れている点は敬虔の徳と熱誠とであった。彼はまた時の教皇グレゴリオ7世に忠誠を尽くしたが、この教皇は様々の悪弊と勇敢に戦い、殊におのれに反対するドイツ皇帝ハインリッヒ4世とは猛烈に争った。フーゴは衷心から教皇側を支持し、力の及ぶ限り聖会の自由と、善良なる風習の為に尽くした。

 されば彼は異例の抜擢を受け、27歳の若さで早くもグルノーブルの司教に任ぜられたが、その受け持ち教区の信仰道徳の状態は甚だ寒心すべきものがあった。で、彼は全力をあげてその風紀を改善すべく努め、その甲斐あって大分見直すようにはなったが、彼が理想とする所にはまだまだ隔たりがあった。で彼はそれを自分の無能な為と思い、職を辞して有名なクリニィ修道院に入り静かな隠遁生活を送ろうとしたのである。
 しかし教皇は彼に復職の命を下した。彼は従順の徳を守るためにそれに従ったが、天主は彼のかくも優れた謙遜と従順とに報い給わぬはずがない。その時から彼の改革の実は大いに上がり、罪人は改心し信徒は熱心になり、彼も大いに慰められる所があったのである。
 けれども彼は相変わらず謙遜で、巡回説教をなし告白を聴くに寧日なかった。そして暇があればことごとく祈りと苦行に用いるのであった。彼は人間の罪深い事を思っては、しばしば祈りながら涙することさえあった。その簡易質素な生活、謙遜、隣人愛は感に堪えぬものがあった。彼は貧民の為には総てを投げ出した。救霊の為にはあらゆる犠牲もおしまなかった。そして大斉を守らぬ多くのキリスト信者の罪を償う為に、自ら進んで厳しい断食を行った。

 トラピストの創立者聖ブルノが、彼の司教区に始めて修道院を建てた時、フーゴの喜びはたとえようもなかった。彼は出来るならばその修道院に入りたかった。が、それは司教の激職にあっては到底許されないことである。で、彼はせめてもの心やりにしばしばそこを訪問し、いつも二、三日間逗留しては祈りと苦行に身を委ねるのであった。
 晩年彼は身衰えてよく病気に罹るようになった。しかし償いの心から常に甘んじてその病苦を耐え忍び、殆ど耐えず祈りを献げた。かくてフーゴは司教たること51年、1132年に行年80歳で帰天した。その後彼の取り次ぎによって数多の奇跡が行われ、為に聖人の列に加えられたのは死後間もなくの事であった。


教訓

 自分が多生とも偉い、などと考えてはならぬ。人間の真価は天主の御前に出てはじめて定まるのである。されば我等も聖フーゴの如く謙遜に、わが救霊の為熱心に励もう。